お気楽日和

誰かに手紙を書く気持ちで、事件性のない平凡な毎日を切り取ってみようと思います。

母と歩く

今日、というか、このところ、母がどうも不安定な気がする。

自分で抱えきれない何かがあるのか、やたらと私に絡んでくるのだ。

年齢を重ねてきて抱える不安なのか。自分が時々やらかす大きな失敗を認知症と結びつけてゾッとするのか。仲良くしていた友人が理解できない趣味にはまって価値観が合わなくなってきたからか。うまく動かせない体の変化か。

すべてなのだろう。

くさくさした時、何か面白いことないかしらとなってきたとき、彼女は私を誘う。

美術館だったり、映画館だったり。バーゲンだったり、どうでもいい近くにできた喫茶店のケーキだったり。

その度に私はそれを察して、連れていってもらってはしゃく娘をやってきた。

彼女は私を従え、威張り、おごり、「どうだ」と母親風を吹かせながら自分の好きなところを好きなやり方で歩く。すべて取り仕切って、私がありがとうというのを聞いて、満足して、自分の存在価値を確かめて元気になる。

この構図はずっと気がついていた。そしてそれが私の役割なんだと、私は私でそこに自分の存在意義を見出して納得していた共依存

その夢から私が覚めた。母にも告げた。最近の私は昔のように自分がどこか行く時、それが母も好きそうな所とわかっていても、そっと一人で行く。内緒にもしない。一人で行きたかったから行ったのだと言う。

この解放感、どうして結婚する前に手に入れられなかったんだろう。こんな簡単なことだったんだ。

母も、娘が明らかに自分に距離をくっきりと置いたなと感じていただろうと思う。

我慢だったのか、母の意地だったのか、彼女も彼女で私を誘わなくなり、自分の友達とよく遊びに出かけるようになっていた。

今日はデパート、今日は体操。今日はお絵かき教室。合間合間に国内、海外の旅行。

顔をあわせるとやっぱり私の気にくわない所や息子の教育に関して、「本当はそんなことじゃいけない」「みっともない」と小言を言うが、私はそれほど翻弄されなくなってきたので、その場限りのこととして流せた。

が。またぶり返している。

今日も午前中、体操教室の出先から電話をかけてきて、午後、一緒に出かけたい用事があるから空けておくようにと言われた。

「ストップかけておかないと、あなた、どっか行っちゃうから」

 

最近、もう、どうでもよくなっている。彼女の言葉が私をぺちゃんこにしても、どう批判されても、そう思うのか、この人はと、心の中で思うだけになってきた。

多分、母に対する依存が抜けたのだと思う。彼女の価値基準に自分を委ねなくなってきたからだろう。思い入れも軽くなってきたのだ。母に対して。

そうなると、精神的に客観的に付き合える。

厄介な困ったちゃん。愛すべき困ったちゃん。

うるさくて、側によるとイラッとするけど、愛すべき困ったちゃんが息を切らして体操から帰ってきた。

「区民ギャラリーでパステル画の展覧会があるの。そこに行きたいの」

なんで一人で行けないんだろう。でも、なぜかそうは言えない。一人で行けばとは言えない。

半日、散々付き合った。

美術館を出ると「計画していた」ニトリまで歩き、計画していた、喫茶店を探し、見つからないので、電車で帰ろうと言うと、シルバーパスがあるからバスで帰ろうって思ってたんだと言うのでバス停に行く。バス停近くに来ると結局喫茶店がなかった、ケーキを食べようと思ってたのにと言う。もう遅いし、このままバスに乗ろうと言うと大きな声で「えーっそんなぁ」と立ち止まる。それでももう遅いからとバスに乗せ、座らせ、最寄駅につくと、また近くのパン屋でケーキと言う。仕方がないので、一緒にエクレアとチーズケーキを食べた。

子供に戻り始めている。今は少女といったところか。

その合間合間に、急に親になるからややこしい。

「あ、そうそう。今度、あなたにまた付き合ってもらおうと思ってる映画があるの」

・・・。

どうして一人は嫌なんだろう。一人の映画って楽しいのに。勝手気ままに歩くのって楽しいのに。

言えなかった。

「寝ててもいいなら付き合うわよ」

ミーハーな映画じゃなくて文化的な芸術的な高尚な映画。若い時は無理して自分も好きなふりして付き合ったが、もう嫌だ。私はもっとくだらないのが好き。

 

疲れた。

親と歩いて疲れたと言えるほど、私もやっと一人前になったと言うことか。

とにかく、疲れました。