お気楽日和

誰かに手紙を書く気持ちで、事件性のない平凡な毎日を切り取ってみようと思います。

息子への詫び状

先日、息子へのスーツを買いに行ったことを書きました。

合言葉は「悪目立ちしない、普通のものが良い」。これをお願いして店員さんに揃えてもらったので、息子も安心して入学式に出ていけるかなと母としては荷が一つ降りた気分です。

これは私の罪滅ぼしなのです。

本人は気にもとめていないことかもしれませんが、式典に着る服を用意してやるという機会は、前回は小学校卒業式でした。

当時の私は階段も手すりを捕まらないと上がれず、家では常に横ばい。活気もなく自分の生きることだけで、本当にギリギリでした。

体の不調は心も不安定にし、いつもイライラとして、できることならずっと横になっていたいところを小学生の息子が「あれがいる」「これどうするの」と、ただ、必要なことを言っているのに、それが煩わしく、怒りながら、しんどそうに対処するのでした。そして、そんな自分の母親としての姿にまた落ち込み、沈む。一瞬の笑顔も意味のない会話のやり取りのかけらもない陰気で怖いお母さんでした。

それでも、中学入学への準備も卒業アルバムや役員の仕事、クラブ役員の引き継ぎなどの事務的な仕事が一段落して、これでしばらく休めると思っていた頃。息子の卒業式の服を用意してないなことに気がつきました。中学の制服でいいのだろうと思っていたら、学校側からのお達しで、制服は不可とのこと。

「お母さん、卒業式、制服じゃダメなんだって」

今の私なら、どっひゃ〜とかなんとか言って、さあ大変と陽気に騒ぎながらなんとかしようと走り回ったと思います。けれど、その時の私は降りかかってきた期日限定のこの課題を恐ろしく面倒くさいものとして扱いました。一人しかない息子の晴れの小学校卒業式。一番純粋で多感な頃だというのに。

その息子を連れて、歩けない私はタクシーで隣の駅の大手スーパーの子供服売り場に向かいました。もう卒業式は来週です。サイズもデザインも、当然、売り払った後です。

デパートと違い、普段着ならともかく、改まったところで着る服の展開は子供服でなければ、次は紳士服となってしまいます。

私はデパートに出直す労力を頭から削除していました。

どれを着せてみてもぱっつんぱっつんだったり、大きすぎたりして、不似合い。おとなしく着ている本人もそれをわかっているので、不安げな顔でこちらを見ます。

「もう、いい、これ。これにしよう」

どうにか、遠目に見ればこれでもなんとか誤魔化せるか。

私は雑にそれに決めました。

「なんか、きつい・・・」

「大丈夫だよ、これに家にある、スラックスとネクタイつけて合わせれば、ちゃんとなるよ」

疲れ切った顔は狂気じみていたかもしれません。尖った声でそう言って押し切ったのを覚えています。

当日の息子は特別変ではないけれど、どこかおどおどしていたようにも見えて、自分でそうしたくせに、私の傷にもなりました。

 

中学の卒業式は退院後の鬱で死にたい死にたいと思っていた時期。中高一貫の卒業式だということに甘えて、私は逃げました。

そこを通ってきてのこの春の高校卒業式。普通の母親のように自然とその場に居られるか恐ろしかった。行ってよかった。行けるまでになった。

大学の入学式はついて行くつもりはありません。

でもどうか、今度こそ、晴れやかに、自信に満ち足りた顔で家を出て行って欲しい。

時間をかけて、笑いながら、値段の相談しながら、ネクタイ、シャツ、靴と選び、疲れ果てて、ドトールでケーキを食べたあの日を最後の仕上げとして記憶に残したい。

彼は記憶に残すだろうか。