お気楽日和

誰かに手紙を書く気持ちで、事件性のない平凡な毎日を切り取ってみようと思います。

うちの姫

冷蔵庫の中身が豊かだ。

老舗の魚の粕漬けの真空パック6個に小松菜、レタス、生椎茸。

昨夜から母と姉がハワイに旅立った。姉は職場から合流するので正確にいうと母のみを7時に見送った。同行する母の従姉妹が息子の運転するベンツで迎えにきてくれることになったのだった。

「車ならうちも買ったから孫くんに運転してもらえるっていったんだけど、あの人、こういうとき自分が上に立ちたいのよ、いいからって引かないから大人しくいうこときくことにした」

同じところにわざわざ二台の車で別々に行くよりいいだろうということだけで特に他意はないんじゃないのと思ったが「そうなんだ」と答えた。

一週間家を開けるので使いきれなかった食材を抱えて我が家に持ってきた。それが今、うちの冷蔵庫を華やかにしている。

「席がね、決まらないのよ」

格安航空会社でチケットとホテルだけ押さえて行く旅行の手続きの説明を受けるときに私もいたが、座席は直前に自分でネットでおさえ、当日空港で本人が直接発券することになっていると言っていた。出発二日前の昨日、姉が仕事から帰宅し、いざ搭乗予定の座席を調べると並びの席は埋まっており、当日の今朝の段階でも状況は変化なしということらしかった。

「だからもっと早くからやればっていってたのに、あの人モタモタしてるから。あの人なんでもそうなのよ大事なことはいつも後のばしで」

どうってことないことのように話して見せるが、苛立ちと不満がビンビン伝わってくる。

「のぞいてみたら、座席表、どこも✖︎ばっかりずらっと並んでんのよ、席がなかったらどうしたらいいのよ」

「あのね。席は確保されているの。それは絶対大丈夫だから心配しなくていいんだよ。お姉さんが言っているのは並びがいいとか通路脇がいいとかっていう要望に応えられない可能性がでてきたってことだけで、座るところは人数分確保されてるの。だって料金に入っているんだから、そういう説明受けたでしょ」

「そうだっけ?」

「そうです。それにお姉さんの段取りが悪いみたいに怒っているけど、そういうシステムなの。大きな旅行会社が多めに確保していたのが直前になってキャンセルするの。そこを早い者勝ちで押さえるの。お母さんが思っていたイメージと現実が違うからってお姉さん責めてもあの人が悪いわけじゃないから」

怒っているという単語に反応したのか、母は声のトーンをあげ大きな声になった。

「あら、ワタシ怒ってなんかないわよ、ワタシ、べつにお姉さんになにか言ったりもしてないですよ、ただ、そうなのって黙ってましたよ」

彼女が自分のことをワタシと言うときは感情が昂っている証拠である。

「わかってる。すっごく我慢して黙ってたんでしょ。だろうけど、心の中でイライラモヤモヤしてもう〜ってなっているのは滲み出てるの。伝わるんだよ、そういうのは」

「だってなにも言ってないもん」

「言ってなくても、はぁっ・・・ってため息ついて、ま、仕方ないわとか、まぁあなたに任せているんだから黙っているけどっとかやられたらね、追い詰められるもんなの」

「・・・だって従姉妹も一緒に行くのに申し訳ないじゃない、スムーズじゃなくて」

そこ。そこです。

「あのね。キツイこと言うけどね。あなたが一番イライラするのは従姉妹の手前、段取りが悪くて格好がつかないって思うからでしょう。関係ないよ、誰の不手際でもないの。それに別にご接待してる訳じゃないんだから。向こうだってツアーじゃないってわかった上で一緒にいくんだからみんな対等なの。旅行会社も航空会社もだれも悪くないの。お姉さんに八つ当たりしたらかわいそうだよ、一生懸命みんなのやってるのに」

これからオババ二人と行動するとなったらなにかと世話を焼くことになるというのに、旅立つ前からこんな濡れ衣で恨まれたら気の毒だ。

「お母さんがもっとこうだったらいいのにって思う理想と、現実が違うからってそれは仕方ないの。そういうもんだから。だから従姉妹にも謝ったりする必要もないんだからね」

「あやまったりなんかしないわよ!」

やや萎んでいたのがここでまたムキになって勢いを盛り返した。

「いーや、あなたはつい、自分がバツが悪くてきまり悪くなるとむやみに謝るの。ごめんなさいねぇ、段取り悪くて。もっと早くから手配するように何度も言っておいたんだけどとか、言いそう」

言いそうなのだ、実際。スマートに行かないと恥ずかしくなって取り繕うつもりで。そしてそう繕いながら怒りがまたこみ上げ、姉を急き立てる。

「何度も言うけどお姉さんのせいじゃないから。それから、席は、あります。恐らく直前になったら通路側とか贅沢いわなきゃ、最低でもおばさんとお母さんは並んで座れるよ、大丈夫」

相手が姉でもこれだったのだから、私がチケット云々を仰せつかっていたらもう爆発していたであろう。

だからあなたはダメなのよっ。とかなんとか言われながら必死にコンピュータと睨めっこしてアタフタする自分が目に浮かぶ。

「あのさ。大人になってわかってきたけど、あなた実はそうとう怖がりなんだね」

「なんでよ」

「だいじょうぶだから。万が一席がバラバラでも絶対ハワイには着く。それからもし、一人で座ることになっても、日本語わかるアテンダントさんは必ずいるから。おばさんも段取りが悪いなんて発想もしないし、怒ったりもしないよ。ましてやお母さんの育て方がどうとか機嫌嫌悪くなったりなんてありえないから。よくないことはなにも、おきません」

・・・・。

落ち着いたようだった。

二時間かかった。

出発の迎えが来るまでの一人の時間不安がふくらんでたまらなかったのだ。それからしばらくテレビを観ながら問題を起こして話題になっているタレントをやっぱり美しいだの、引き受けていたドラマはどうなっちゃうんだろうねなどと二人で時間をつぶした。

「寒くならないうちに買い物に行ってくるけど、軽くなんか食べるもの買ってきてあげようか」

4時半になっていた。

そうね。パンかなんか買ってきてもらおうかな。

素直である。いつになく。

スーパーに行き、帰りに駅前のパン屋に足を伸ばし彼女が好みそうなデニッシュにさつま芋とレーズンが巻き込んであるものを買った。

「はい、どうぞ」

ありがと、わざわざパン屋に回ってくれたの?袋を覗き甘いパンを見つけ嬉しそうにすぐにくわえた。

「牛乳かなんか飲んどきなさいよ、じゃ、あたし帰るから」

自分の家に戻ろうと廊下を歩く背後から母が叫ぶ。

ありがとねぇ!・・・ではない。

「なんだかんだいいながらあなたも結構お節介なのね!」

・・・・笑顔だったので許す。

 

食べちゃったの?

日曜日の午前。夫は例によって午後からテストで出かける。

朝からテーブルに最後の足掻きとテキストを広げているその横で、私は一足先に朝ごはんを食べていた。

息子もアルバイト、夫もこれから出かけるとなると午後はまるっと一人きりだ。さっさと夕飯の下準備をして今日は溜まっていた録画ドラマをみよう。

夫の朝昼兼用となるであろう食事をお盆にセットする。

オムレツ、昨夜のクリームスープ、納豆、ミネストローネの残りにマカロニを入れてチーズで焼いたもの、ご飯茶碗とみかん。

それから大根、白菜、じゃがいも、にんじん、舞茸、しめじ、油揚、ベーコン、鶏モモ肉を細く切ってブイヨンで煮るだけのスープを作り、冷蔵庫にあった豚ロースを低温で焼いたものに生姜醤油だれをなじませタッパーに保存した。

入院するとき、作り置いていった惣菜の中で好評だったこれは、要するに先に低温でじっくり柔らかく熱を入れ、後からタレに漬け込む生姜焼きなのだが、多少めんどくさいが、夜になってフライパンでガーっと急いで焼くよりも柔らかく、食べる直前に食べたい分だけ温めればいいし日もちもするので、便利で今でもよく作る。

あとはトマトでも切ってお豆腐やなんやかや並べればいい。

そこまでやってから、隣の母のところに用事があり出向いた。

「行ってくるよ」

戻ると、夫が食事を済ませ出かける準備の整ったところだった。

「ああ、ごめん、ご飯、置いておいたのわかった?」

「うん、わかった。全部食べた。ついでにお肉もいただいた」

お肉?

「お肉って、あそこのタッパに入れといた分?」

「うん。お腹空いてたから。蓋がどうぞってずれて置いてあったから・・美味しかったよ」

私の口調に何かを察知したのかやや早口で目をキョロキョロさせる。

見ると容器の中の肉は残り1、2枚になっている。

「でも5、6枚だよ、食べたの、ちょっとだけ」

「200グラムあったんだよ」

「え・・・」

ちょっとじゃない。しっかり食べた。

「やだぁ。あれ晩ご飯だったのに」

「そうなの?ごめ、食べちゃった。だって蓋ずれてたから、良かったらこれもどうぞってことかなって・・あ、急がなきゃ、急がないと。間に合うかな・・」

まるで漫画のようにアタフタ逃げるよう玄関に向かう。

「もう、ダメだ、もうやる気がしない。また1からやり直しじゃんかんよー」

柄の悪い女に絡まれまいとそそくさと靴を履き「それじゃ、行ってくるから」と家から出ようとする。

「もう今日は成城石井のハンバーグ買ってくるからね」

「買いなさい買いなさい、じゃ、行ってきますんで」

現場を後に夫はその場を去った。

冷凍庫をグルグル探す。成城石井なんてそんな贅沢するものか。今から行くのもめんどくさい。何か使えるものはないかとかき回す。

そこに母がやってきた。

あんまりの衝撃に今あったことを話すと一旦家に戻り

「ちょうどいいわ」

と差し出された。

「明日からハワイだから、冷蔵庫整理しなきゃって困ってたの。お肉買いすぎちゃったみたいで食べ切れないのよ。あげる」

見ると赤身の豚肉の焼肉用が230グラム。うちがいつも買うよりも数段お高いお肉。

これは生姜醤油などにつけず、ただ焼くだけがおいしいにきまってる。

夫、結果的に、でかした。

 

 

 

帰ってきたものは

布団の件である。

一ヶ月半をかけ無事に戻ってきた羽毛布団は以前よりも明らかにふかふかになった。

その晩楽しみにベッドに潜ったのだが、アレ?・・違和感を感じる。

なんか違う。

その晩は羽毛を覆っている布地が違うからだろうとそのまま眠ったが、それでもなにかが違う。

もしや。いや、そんな。

どうやら私がつい最近まで使っていたものは打ち直しに出した息子が使っていたものより数ランク上等なものだったようだ。

同居していた父方の祖母が亡くなった後、遺品整理をしていた母が「私は使わないから持って行きなさい」とよこしたものだった。当時は息子がまだ幼稚園でそろそろ彼にも大人用の布団を買ってやらないとと思っていたところだったので、ありがたく頂戴した。

しかし、いくらなんでも亡くなった人の使っていたものを、幼児の息子に使わせるのもと私がそれを使い、息子には私のものを譲ったのだった。

そう。息子が使い、直しに出したものは元を辿れば私の嫁入り道具で、わたしが最近まで愛用し、今は息子のベッドで彼を温めているものは、亡き祖母の形見なのである。

もう足にすね毛の生えている青年に形見も何も関係なかろう。

若かった頃の記憶では、随分と上等な布団を買ってもらってしまったということになっていたので、打ち直しを経て、また自分で使うことになり密かに「しめしめ」とほくそ笑んでいたのだが、とんでもないことのようだった。

その昔、嫁の立場であった母が、お姑様のためにと購入した羽毛布団は娘の嫁入り道具とは比べにならないくらいの、超上等なものだったに違いない。

ああ。あれを安易に手放すのではなかった。

母の愛だとひんやりした夜になったので、とりあえずにとカバーを付け替え譲ったが本人はそれすらも気付いておらず、毎晩ぬくぬくと肩まですっぽり被り熟睡している。

「カバー洗濯するときに入れ替えちゃえばいいじゃない」

茶飲み友達はそういうが、それは母としていかがなものか。

やっぱりそっちがいいものだったから返せというのは、母として人として。

あれから数日、認めたくないが明らかに以前のものの方が軽くて暖かい。

毛布を重ねていた頃と比べても、暖かさ的にはそっちの方がよかったかもしれない。

フワフワしているその間から空気が入り、肌に隙間を作る。痩せている身体にはその隙間を埋めるだけの肉がない。

昨夜、夜中に目が覚めたので先日まで臨時でかけていた薄がけの羽毛布団を二重にのせた。

すると、優しい重力と薄がけ自身の羽毛とが相まって上から私を包み込みなんとも言えない至福の寝床に変身した。

あ、これでいい・・・いや、これがいい・・むしろこれが一番だ・・・も、こりゃたまらん・・・。

たまらんのである。肌にくっつく感じも、その暖かさも。

11月から二枚重ねの奥の手を使ってしまってこの先どうするんだという一抹の不安はあるものの、今はこれで満足だ。

二度と青年の汗と脂の混じった匂いのするものと、取り替えようなどとは思うまい。

そして今朝、寝坊した。