豆苗
庭の小さいテーブルに豆苗の「もう一度」を置いた。
一回買ったものを切り落とし「もう一度」水を張り苗が生えてくるのを待っている。
息子は豆苗が嫌いだ。
スーパーで友達に「ベーコンと炒めたらうちの娘も食べたよ」と聞いたので買ってきた。ベーコンとさっと炒め塩をちょっと振りかけただけのそれを本人は豆苗だとは気づかずぺろっと食べたので、こりゃあいい、もう一度収穫して食べようと、今、毎日水を変えているのだ。
3日目の今日、早くもひょろっと新芽が出てきている。
嬉しくなってそばにいた息子に
「見て、豆苗ニョキニョキ出てきた」
と見せた。
「なんだそれ」
「豆苗、一回切ったのに水をやってもう一回収穫するの、生えてくるんだよ」
「・・それ、俺も食べなくちゃいけないの?」
「いや、いいよ、別に食べなくても」
そう言いながらも心のうちでは、ベーコンと一緒にまた食卓にだすつもりであった。
「じゃ、俺は食わない」
「いいよ。かあさんはこれの柔らかいところをつまんでウニと敢えて食うがな」
「なに?雲丹だと?」
「そしてその上からイクラをパラパラっとふりかける」
「じゃあ俺はその上に乗っかったところだけいただく」
「そしてそれをマグロの赤身でキュッと巻いて食べる」
な、わけはない。
ああ!食べられない!
「ごちそうさま。」
スイカの皮の上にピンクのところがまだ1センチ以上ある。まだあそこは甘い美味しいところだ。ああ、この子はなぜこんな勿体無い残し方をするんだ。
御膳を下げ、キッチンでこっそりカマキリのように残った皮にかぶり付く。
息子の歯型のついた食べ残しを立ち食いしているその姿の醜さと、美味しいところをそのまま捨てる勿体無さを天秤にかけるとどうしてもやってしまう。
バナナの皮をむいた最後の1センチ。鮭の皮のこんがり焼けたところ。ケーキの生クリームのたっぷりついたセロハン。カステラの茶色いザラメのついたとこ。
そこが美味しいんじゃん!
息子がここでおしまいとする領域はお殿様のようだ。
一番真ん中の美味しいところだけ掬いとって食す。
私はサンマの肝の美味しさも、鮭の皮の香ばしさも知っている。スイカは白いとこギリギリまで食べるし、カステラはザラメのついていた紙にくっついたとこも好きだ。ケーキのセロハンについた生クリームはフォークでしごいて口に入れる。
食事が終わりくつろいでいるそのテーブルに、彼からみたら残飯で、私にしてみれば「まだ美味しいもの」が乗っかりながらみんなでテレビを見ているそのとき、気になってしようがない。
さすがに今ここで「それ頂戴」とは言えない。
スイカの食べ終わり、それ頂戴。ダメだ。
魚の皮、頂戴。・・・ううーん・・。
そのセロハンについてる生クリーム!あんなたっぷりついているのに!
家族とテレビを見ながら頭は残飯になってしまう美味しいところでいっぱいなのだ。
今朝もピンクのところがまだたっぷりあるまま、スイカが皿の上に置かれご馳走さまと帰ってきた。
勿体無い!
しかし。手がすっと伸びない。
息子が大人になってから伸びないのだ。髭を剃ったりスネ毛のある青年の歯型のついたスイカの食べ残しに、手はためらう。
ああ!美味しいのに!
子供が自分の卵から孵化して成鳥していった。
もう食べられない。美味しいのに。
一瞬
久しぶりに詩集を注文した。
詩集とそのひとの書いたエッセイと。
ずっと楽しみに待っていたのを郵便屋さんが持ってきた。
いそいそ袋を開けてさっそく開く。
午前中。洗濯は終わり、風呂掃除もトイレ掃除も終わった、昼前のひとりの時間。
キリッとそぎ落とされた言葉の詩だ。
ちょっと難しい。わかるようなわからないような、掴めそうで掴めない。
イマジネーションと厳選した言葉と哲学。
信号のよう。
この人をもっと知りたくてエッセイを開く。
エッセイは詩を読むためのナビゲーターのために買った。
柔らかい言葉で彼の日常の一部分が伺える。その会話や文章のところどころに、著者の気質や価値観や癖のようなものが隠れている。それを詩を読むときのヒントになると拾っていく。
さっきの難しかった信号を書いた人が少し、こっちに来た。
もう一度詩を読む。
声に出して読んでみる。
さっきよりお友達になれそうな気になって嬉しくなる。
ときどき庭の緑をみる。
空を見る。
また、本に戻る。
するするするっと頭の中をわかるなぁと共鳴する本が
乾いた喉を潤すビールだとすれば
こんな風にちょっと読んでは、ふう・・・と遠く目を空に向けまた読み進める本は
上等なウィスキーのよう。
少しづつ少しづつ味わって味わって。
あ。鳥が鳴いてる。
贅沢な一瞬。