お気楽日和

誰かに手紙を書く気持ちで、事件性のない平凡な毎日を切り取ってみようと思います。

ハイヒールは木曜日

午前、10時半。隣の家のドアが開く。昨日と全く同じ格好をした母が庭から回り込んで顔を出す。

「仕切り直しで。行ってまいります」

「はい。気をつけて。楽しんどいで」

なんの仕切り直しか。

昨日、ベランダで洗濯物を干していると母が出かけていくのが見えた。ちょうど隣の家のベランダでやはり洗濯物を干しに出ていた姉が「歌舞伎だよ」と教えてくれた。

あれ、歌舞伎は確か木曜じゃなかったっけ。

「明日じゃないの?」

「いや、今日」

そうだったっけ。木曜の体操を休むって言うからそう覚えていたんだがな。

それからしばらくして家の電話が鳴る。

「母さん、ばあちゃんから、お母さんに変わってくれって」

携帯を忘れた。待ち合わせの相手から何か連絡が入っていないか見てくれ。困って心細いというよりは、少し苛立った命令するような強い口調に急かされ、母の家に入り携帯を探し、手にして戻る。

「あった。着信もラインも入ってないよ。来ないの?」

「そうなのよ!」

「私、電話番号知ってるからかけてみようか?どうしよ、じゃ、もう少ししたら掛け直してくる?」

「あなた、あの人の携帯わかんないの?」

「お母さんの携帯の連絡帳、開けていい?」

「いいから!早く!今このまま待ってるからかけて!」

苛立ってるぅ。おっかねーヨゥ。 

その場で右手に母と繋がったままの受話器、左に母の携帯でお相手を呼び出す。

ルー、ルー・・・「はい」。すぐに出た。

「トンですけど。ご無沙汰してます。」

「あらぁ、こんにちわ。どしたのぉ?」

あ、これは。長閑な返答ですべてを把握した。

「あの、母との歌舞伎って今日でしたっけ、明日でしたっけ」

「明日よー。何、どうしたの?お母さん、今そこにいるの?」

「いえいえいえいえ。ちょっと確認したかったんですけど母がいないんで。すみません、ありがとうございました。おさわがせしました」

私の声を聞いていたはずの母に右の受話器から呼びかける。

「帰っておいで。明日だ」

 

程なくして母は帰ってきた。駅の改札が待ち合わせ場所だったのが幸いだ。

「お騒がせしました」

ちょっと睨むような、照れ笑いのような硬い表情で庭越しにこちらに立ち寄る。

コンビニの袋にハーゲンダッツのバニラと抹茶。ハイヒールを履き髪の毛は綺麗にクルクル巻かれていた。

「お、ありがと。まあ寒い日じゃなくてよかったね」

からかってもいけない。慰めてもいけない。そのことに触れないのも白々しい。

それからまたすぐに、着替えた彼女が今度は内扉からやってきた。

「あの、さっきのあれ、あの人になんて言った?」

もっとしょげているかと思いきや、詰問口調に一瞬、身構え、言葉選びに慎重になりながら、なおかつ平静を保った風にわざとのんびり答える。

「あぁ、私が用があるんで確認したいけどいないから教えてってことに」

「あ、それならいいわ。そう、そうなのよ、あの人に知れたらそれこそ面白がって、またそこいら中に言いふらすから厄介なのよね。あ、そう、じゃあ知らないのね」

「うん、知らないよ」

ならいいわ。と納得した様子にホッとする。なんで私がドキドキせねばならんのだ。

「もう年取るとだんだんこういうことが増えてくるのよね。ボケの始まりかしら」

そんなことないよと言うのも空々しい。かといってそうだねとは恐ろしくて言えん。

「そんなこと私、しょっちゅうあるよ」

「やだ、あなたと一緒にしないでよ」

踏ん反り返って腰に手を当て笑う。

よしよし。へこたれず、そのくらいの元気があるならいいでしょう。

 

「じゃ」

昨日と全く同じおしゃれをし、ハイヒールを鳴らし、ちょっとだけ照れ臭そうに、でも踏ん反り返りたった今、母は出かけていった。

「夕方には帰るから」

ごゆっくり。

 

草むしり

台所のポトスが元気がないので、少し大きめの鉢に植え替えることにした。

庭の土を足そうと出たら小さな草があちこちに生えていたので、なんとなく抜く。

すぽすぽ気持ちいいように抜ける。

草むしりは、やらないとって思って始めると、始めたときから終わりを狙っている。ちょっとむしっては全体を振り返り、成果を確認する。ずいぶん抜いたつもりでいるからさぞ、綺麗になっているだろうと眺めると、自分が夢中になってやっていたのはほんのちょっとのちっぽけなところだけで、周りにはまだまだたくさんぺんぺん草が生えている。

今日は庭をスッキリさせるぞと気負って始めたのだったら、ここでげんなりしてしまう。やれどもやれども終わりが見えずに気持ちがなえてくる。

背中にお日様背負って気まぐれに始めた草むしりは、成果を期待していない。

気が乗ったからやっている。作業を面白がっているから出来不出来は気にならない。むしろ、そんなものはどうでもよいのだ。

なんか人生と似てるなぁ。

成果云々より今、今、今を気の向くようにやっていると自分の人生の出来不出来より、面白いかそうでないかの方が重要になってくる。

そんなことを考えているうちに、草抜きも飽きてきた。

もうひと頑張りすれば今日中にスッキリできる。そのうちあっという間に雑草が芽吹いて庭中埋め尽くすだろうから今のうちにやっておくといいのだろうな。

・・・なんだろうが、疲れちゃったからもうやーめた。

面白くなくなったらそこまで。

続きはまた気が向いたとき。お楽しみにとっておこう。

 

 

それぞれのおこだわり

昨年末に亡くなった祖母のお墓詣りに行った。

母と二人、1時間ほど電車とバスを乗り継ぎ行く。

渋谷でお寿司かお蕎麦を食べてからいこうと言うのを「ここで良いじゃない」と地下のコーヒーショップで厚切りチーズトーストを並んで食べた。

ふと見ると、トーストの耳の部分だけ、外して皿に積み上げている。

そうだった。この人はパンの硬いところは残す。サンドウィッチも、トーストもそうする。パンは柔らかくてフワフワしていないといけない。トーストは中の白い部分にバターやチーズがたっぷり乗っているのが好き。クロワッサン、デニッシュが好き。

「だって口の中がモサモサするんだもん」

ベーグルや全粒粉のパンのように噛めば噛むほど味が出るようなものが好きな私は、積み上がった耳が気になる。

トーストは耳が一番美味しいんだよ。

「ちょっと頂戴」と以前、何度かもらおうとしたことがあったが、「およしなさいっ、汚い」と、ものすごい勢いで残飯に手を伸ばしたことをたしなめられ恥ずかしかった。それ以来見て見ぬ振りをしている。

母は話しながら自然な手つきで紙ナプキンをその上に広げて被せた。

自然な手つきをしながら、彼女のもパンの耳を隠すことに意識は集中している。

慌てて視線をそこから外し、こちらも気がつかないふりをして相槌を打つ。

あ、触れた。

紙ナプキンがパンに接触したその瞬間、耳は残飯になってしまった。

あぁ・・なっちゃった。

私の意識もそこに集中している。目は自分のコーヒーカップに向いている。

「さ。行きましょうか」

「そうね」

何事もなかったように席を立つ。

短い二人の「むむっ」の時間。