お気楽日和

誰かに手紙を書く気持ちで、事件性のない平凡な毎日を切り取ってみようと思います。

取り乱してしもうた

パソコンの不具合ですっかり動揺し、夕飯を抜いた息子は、徹夜で工場出荷状態に初期化し、再度OSをインストールし、アカウントの設定をした翌朝には晴れやかな表情に戻っていた。

「なんとか・・最悪の事態から回避でた・・・」

いちいち表現が大袈裟だ。

その晩、昨夜出すはずだったタンドリーチキンをオーブンで温め直し、出した。

「なんだっこれ!うまっ」

わかっている。本当に驚嘆するほど美味しくて言ってるのではない。一度冷蔵庫で冷たくなった鶏肉にもう一度熱を通しているのだ、そんな思わず声が出るほどうまいわけがない。

彼なりの、昨夜食べなかったことへのフォローなのだ。

「そりゃうまかろう。一晩、スパイス漬け込んであるからな」

「昨夜は俺としたことがパニクってしまった。すまなかった。母さんに当たってしもうた」

「いや、いい。慣れてるから」

「慣れてるとかいうな。俺がいつもそうなるみたいじゃないか」

「そうか。」

いつもだろう。

ジワジワくるストレスには耐性が強く冷静なのに、突発的なものには割と派手に反応する。追々様子を見ながらということはできず、突き詰める。

とことこん突き詰めるので自分なりの落とし所に落ち着くのも早いが、その間、そばにいる者が何かしら影響を受けることになる。とばっちりというか。台風の余波というか。翻弄というか。長年の付き合いでわかってきたのは、こうなったらもう、あれこれ言わずひたすら避難。避難するに限る。タチが悪いときは

「なんだよぉっ。逃げんのかよぉ。」

と絡まれるが、ここで引き返してはいけない。

眠くても眠くなくても布団に入ってしまうに限るのだ。そうこうしているうちに、敵はうろつき回るのをやめ、部屋に閉じこもり、一人、問題に向き合う。そして、ゆっくりゆっくりクールダウンする。

「久し振りに取り乱してしもうた」

まるで二日酔いの朝の男のように、昨夜の失態を恥じる。こっちは「また始まった」程度にしか思っていない。

久し振りと言われれば久し振りの避難警報だった。そして警報解除も早かった。

恥じている息子。

これは新しい。

恥じ入るようになったか。19歳。

 

秋の朝と水羊羹

「おはようかん 。トラトラトラ」

早朝、夫にLINEを送る。

そう。あヤツは、今回も息子に虎屋の羊羹を持たせるのを忘れやがった。おそらくまだ、会社のデスクの下にこっそりと置かれているのだろう。

虎屋の羊羹とは、この夏、単身赴任中の夫が帰省した際、上司への土産として用意したものだ。加えて言わせていただくと、前日の一泊旅行で家族全員、疲労困憊のなか、犠牲は一人で良い・・・と正義感に燃えた私が猛暑の中をヨタヨタと買い求めに行った怨念の羊羹なのである。

羊羹は重かった。これも、付け加えさせていただきたい。

しかし、夫はタイミングと社内の雰囲気とその他諸々の事情により、現場で急遽、これを渡すのは今は的確ではないと判断した。寸前で行き場のなくなった品は今も夫のもとにある。

渡さなかったこと自体は、どうでもいいのだ。

正直、なんだよぉ、骨折り損かよぉとも一瞬思ったが、それはそれ、現場判断が一番重要だ。夫の勘がストップとなったなら、それが正しいのである。

8月末に「ごめんなぁ」と言われ「いいよいいよ、それなら次帰ってくるとき持ってきて。こっちでみんなで食べるかお裾分けするか、するからさ」と返事した。

もう9月中旬である。いや、下旬か。すでに今月の給料日がやってきたから、下旬である。

持ち帰るのを忘れた夫は、息子が遊びにきたとき帰りに持たせると言い、それも忘れてしまったのだった。

羊羹は日持ちがする。賞味期限は11月なので、戻ってきたらそれを持って、祖母がお世話になっている施設の皆さんに差し入れで持って行こうと思っていたが、ここまでくると、それもちょっとむずかしい。詰め合わせの箱には水羊羹も6つはいっている。さすがにいくら気心の知れた職員の方達でも、お月見の頃に水羊羹っていうのは、憚られる。

 

「おはよう!トンさん。今日も頑張る!」

返事が返ってきた。

・・・そうじゃなくて・・と脱力していると続けて入った。

「羊羹、10月上旬に帰るとき持ってくね!」

ニッコリマークの絵文字が長閑にこっちに向かって微笑んでいる。

「頼むよぉ。ラストチャンスです。次もし忘れたら着払いで送ってもらいますぞ」

実際に顔をつき合わせていたらきっと「もうっ。いい加減に持って帰ってきてよ」となるだろうが、これから出社するのかと思うとつい、勢いに欠ける。

「11月までだから。あんまり遅くなると友達にお裾分けもしづらくなってくるからさ」

「オッケー」

ぬわぁにがオッケーじゃ。

画面に向かいひとり、あっかんべーをする秋の朝。

 

避難せよ

ごはんですよぉ」

返事がない。二階にいる息子、食事といえばドドドドッと威勢良く階段を降りてくるのに、寝たのだろうか。

「お食事ですけどぉ」

そこにゆっくり降りてきた。

「・・・やっちまったかもしれない・・・」

どよーんとした暗い顔で独り言のように、しかし、明らかにわたしに向かって呟く。

「どした」

「パソコンのいらないソフトを削除してたら、消してはいけないプログラムも消したみたい・・」

動かないのかと聞けば、今のところ何の問題もないが、いつもは表示されているWi-Fi設定を管理するアプリが消えているという。

「それで、いま、Wi-Fi、使えてないの?」

「いや、繋がってる。でも表示が消えた。なにか取り返しのつかないことをしちゃんだ」

繋がっているなら、大丈夫なんじゃないのと言っても息子の胸のザワザワは治まらない。

それはそうだろうと思う。

パソコンの些細な不具合は、素人であればあるほど、今何が起こっていて、それがどれほどのダメージなのか、よくあることで放っておいても問題ないのか、致命的なのか、ちょっといじればもとに戻せる程度か、修理が必要なのか、わからないから見当もつかず、モヤモヤする。

私もつい最近自分のMacBook Proがついに起動しなくなり、いずれ修理に持って行かねばと、どんより問題を抱えているところだからよくわかる。

ここは迂闊なことは言えない。

うっかり「こうじゃないの?ああしたら?こうしたら?」などと言おうものなら、やってみたけど事態がさらに悪くなったということにもなりかねない。

「まあさ、ここはご飯食べて頭を休めたら?脳に血液が回らないといい判断もできなくなってくるよ」

これは経験から言って、確かだ。

パソコンの前から離れられずに、ああでもないこうでもないと、あちこちやっているうちに、疲労した脳みそが「ええい、どうとでもなれっ」と一か八かの勝負にでてしまうことがある。それが功を奏すこともまれにあるが、大抵は、どよーんが、どよよーんの取り返しのつかない事態へと展開する。

「とても今、食べる気になれない・・・」

それもわかる。そうなんだよねぇ。そういうとき、もう頭がそっちにいってるから、気持ちをそらすことできなくなるのだ。

「じゃ、先食べるわね、置いておくから自分であとで温めてね」

あまり深く関わりたくないのでさっさと自分の分をお盆に乗せ、あえてテーブルでなく床に置いてある文机のほうに座ったのに、息子は負のオーラを纏ったまま、テーブルで深いため息をつき続ける。

ここでテレビをつけると怒り出すだろうか。

辛気臭い空気を吹きはらいたくてスイッチを入れた。文句は言わないが私の意識が自分の大問題から外らされたとは伝わったようで、はぁぁぁぁぁぁぁぁ・・・と、聞こえよがしなため息を何度かついた。

これも無視すると八つ当たりがくる。ときどき思い出したかのように「だいじょうぶだいじょうぶ。いざとなったらマックストアに持っていけば直してくれるよ」と振り向いてヘラヘラ言うと

「なんて説明すればいいかうまくできないし、修理中にこれまでのデータが見られちゃうかもしれないだろ」

ありえない。

「そうか。じゃぁ、とことん納得いくようにやるしかないね。私は聞かれてもわからない」

やんわり、もう私にその件で話しかけるなと言ったつもりだが

「どうしたらいいんだ、あぁもう終わりだ、どうすればいいんだよぉ」

は続く。

・・・食事が美味しくない。絶叫するなら自分の部屋でやっていただきたい。

仕方ない。これが息子という人間だ、この極端なところが時としていい発想をしたりもする。私なら流してしまう不具合や居心地の悪さも、妥協できないこの頑固さが、転科するなどと大胆なことをやってのける起爆剤にもなっているのだ。

グレーも曖昧も、ドロドロも、抱えたまま取り敢えず進んで行くなどというやり方は、教えてもらうものではない。いっぱい傷を作りながら悔しい思いもして、身体で覚えていくのだろう。

観念した私は早々に食事をすませ、冷凍庫からアイスを取り出した。

「私、二階に行ってもいいかしら」

「うう〜」

「ちょっと二階でぼんやりしてくるね、落ち着いたら食べなさいよ」

「うう〜」

逃げろ逃げろ逃げろ。

一食抜いたところで死にはしない。

お腹が空いたらいつか食べるだろう。

たくさんのスパイスを使って作ってみたタンドリーチキン。どう?おいしい?って食卓をイメージしてたんだけどなぁ。

ま、そんなこともある。