トイレ掃除から思うこと
トイレの掃除をしていた。流した後に水の出てくる銀色のノズルの根元がうまく洗えない。ノズル自体にも青銅のような水垢がついている。これもいつもこするのだが、角度が悪くてスポンジが安定して力を入れられず、いつも中途半端で諦める。
今日も壁を磨き、便器を磨き上げ、床も拭いて、完璧っつと言いたいところだが、ここがネックになって「ほぼ、合格」で終わりにしようとした。
ここがねぇ。もうちょっと洗えるといいんだけど。そう思ってガタガタこすっていたら、くるっとノズルが動いた。
え。動くの。これ。
なんとこれは持ち上げれば外れるのだった。ただ乗っけてあるだけの蛇口だった。
23年、この家に住んでいるが、全く知らなかった。よく、知らないままここまできたものだ。
きっとこんなことは私の周辺には山のように転がっているのだろう。
よく歩くあの小道にだって、ときどきびっくりするくらい綺麗な夕焼けの見えるスポットがあったり。
あのスーパーだって熟知している気でいてもカウンターサービスや魚の三枚おろしの他にもっと便利なサービスが用意されているのかもしれない。
そして夫も。家で見る姿と、会社の顔、義理の父と兄だけとの会話の時の彼、友達の中での姿。想像はできるが、それは真実ではないし、全く別のものだろう。
父が晩年、入退院を繰り返した頃、会社の人たちが病室にやってきて、父に対する彼らの中でのいつもの会話を目の前で見て、やっぱりびっくりした。
自分の親だけれどそれは知らないどこかの会社のおじさんだった。
息子も。姉も。母も。
近い人たちほど、知らない。そこを深く考えると家族運営が不自然になりそうだから突き詰めないが、彼らが私に見せるのはその瞬間のわずかな顔なんだ。
見ている姿、様子だって一部なのだから、そこで接したときの会話や態度でその人を「こういう人」「こう思っている」とこっちで勝手判断すること自体、無理なのだ。
その小さな瞬間を何度も重ね、長く共有しているからわかった気でいるというのもの危険だし、思い上がりだ。
そんな当たり前のこと。今頃腑に落ちる。
だから、私のことを理解してくれる人を求めることも、そもそもおかしい。
なんとなく。でいいのだ。そんなものなくたっていい。
だって、私自身も子供の頃からいまの自分が同じ人間と思えないときもあるし、日々、マイナーチェンジをして進化している。
私自身、自分を「こういう人」と思い込みの枠にはめているかもしれない。
私という人間は、今の状態。
守りに入らず、どんどん展開し前進するのだ。