感謝溢れる
やばいやばいやばい。
広辞苑でやばいの意味に「のめり込みそうになる」というのが追加されたそうだが、私のここでのやばいは、もとからある方の「危険を懸念する」方。
何がやばいのか。
そもそも・・なんのために・・が散らつき始めている。
気がつくと私のように自分の心の声を日記のように書き残しているだけのものにも読者の方が100人を超えていた。普段、アクセス解析のようなところは自意識にダイレクトに響くので見ないようにしている。それでもときどき、はてなさんから通知をいただいて、あぁだれか読者になってくださったんだなぁと、一人地味に感動していた。
それを先週、パンドラの箱を開けてしまった。
眠いけど、今日、心に残ってることはこれかな・・と、書いたときも、悲しみで平常心を失っているときも、支えてくださった方がこんなにいらっしゃる。
読書になったと言うことは、半ば強制的に私の駄文がさも、新着記事ですって即、通知がいってしまう。そのことを思うと。
ほうら、予期していた通り、「こんな内容もないこと書いて申し訳ない」と思い始めるようになった。
ただ、書いて、心の頭の整理をして、ときにどなたかが、「頑張れ」「それでいいよ」
「うちもあったよ」と声をかけてくれる、それが、母からも娘からも妻からも抜け出た私自身の生きてる証のようで私を加速的に自立させてくれた。
自分のことで頭がいっぱいで考えているようで深くは読み手のことまで意識しておらず、広い宇宙の星たちに投げかけているような、「だからどうした」という、そんな手前勝手のことばかり書いてきた。
こんな内容でいいのか。そう思うとあれほど楽しかったメモ的日記的、手紙的ブログもゼミに提出するレポートのようになり、勝手に潰れそうになる。
で、そもそも・・になるのだ。
そもそも私ってなんでブログ書いてるんだろう。
なんのために。これを思い始めるといけない。私の場合、体調を崩し始めると心もおかしくなるのか、この傾向がある。
答えなんかあるわけがない。ただ、好きだから。面白いから。やめられないから。
そこを無理やり位置づけしようとするから、悶々とする。
そして、これが最終的には「そもそも私はなんのために生きて死んでいくのだろう」
と、壮大な手に負えない話につなげてしまう愚かさ。
生きるのに意味なんかない。ただ、命があるから、肉体に宿っているから。そういう状態にあるから生きるのだ。意味も価値も上も下もない。優劣なんか、当然、ない。
ブログもそうだと思いたい。
社会性もなく、立派でもない地味な主婦が、主婦の視点でもなく、大人の女性としてでもなく、迷子になった子供のような不安や疑問やひらめきや喜びをただ、書いているだけ。
そんなこのブログを読んで
「こんな奴でも、生きてる生きてる、よかった。立派じゃない人もいるんじゃない」
とホッとする。
そういう勇気づけになることも、ひょっとしたらあるかもしれない。
意味づけはしない。
私という人間にも。このブログにも。
そう、整理整頓したら、また、このブログが私自身の憩いの場になった。
121人の皆様が毎日毎日、このブログにクギ付けで必ず読むぞっと思っているはずもない。やっぱり私は宇宙の星の皆さんに向かって書いていこう。
遠く近くの星の皆様。
存在してくださって本当にありがとう。
いてくださる。この文をどこかだれかが拾ってくださる。
それが私を励まします。
ありがとうございます。