穏やかな雨の日
今日は雨のせいか、持病のせいか、不調。頭がぼうっとして、どこが痛いというわけではないが、内臓も脳みそも低速モードだ。
今朝、息子に起こされた。息子のアルバイトがある日は朝食を出すために4時に起き、4時半朝食なのだが、起きられなかった。
「ごめん、今何時」
「四時半。なんか食べるもん、あるかね」
昨夜、お櫃を空っぽにしたまま、タイマーもセットしないで寝てしまった。
冷凍庫からパンを出し、焼いて、バターをのせるバナナを出す。昨日の残りのフライを温め、牛乳。
来週からは、何か勝手に食べられるように用意しておこう。寝坊してしまっことで、私が頼りにならないことが彼の脳内にインプットされた。私の脳内にも「しっかり私が頑張って起きなくても、大丈夫」とインプットされた。また一つ、気負っていた荷物がおりた。
不調と言いつつも、今晩は、母が息子の誕生日を祝ってくれる、いわば、パーティ。
「お姉さんの休みがその日じゃないと取れないから」
主役のスケジュールより、自分の娘の都合に合わせるところが母らしい。お寿司を取ってくれるそうだ。息子のリクエストで、私はケンタッキーのフライドチキンを買いに行くことになっている。
この雨。宅配とかないのかと探したが、あいにく、うちのエリアは該当する店がなかった。
雨の中、隣町まで歩く。
今夜は母が取り仕切ってきっと、暴言の数々が出るであろう。それもよい。
最近、思うのだ。
無限の宇宙に、いろんな生物がいて、いつもハツラツと社会に、人の間に出て自分を発揮する人、手先の器用な人、様々な形態、生活がある。どの家庭も少しづつ似ているところがあって、大きく決定的に違うところがある。
その中で私のような日常があってもおかしくはないなと思うのだ。これといって目立って素晴らしいわけでもないけれども、生息している私という生物の生態。
そう俯瞰して捉えると、些細な不調や、コミュニュケーションの不具合も、どこか、そういう風にできていると、その程度のことではないかと思うのだ。
そうすると、この毎日の中に時々起こる厄介な現状も、なんとかしなくては、どうすればいいのだろうとはならず、「まあ、そうなるよね」くらいになる。
自分の気持ちや感情にちょっと無責任になれて楽になる。
ここまで書いて、夕飯に呼ばれていってきた。案の定、母は孫と娘に囲まれて嬉しくなって暴言失言を無自覚に吐き、息子は不機嫌になって帰ってきた。
二世帯で暮らしていればそういうこともあるよね。
私はどちらも味方も諌めることもしなくていい。ただ、それだけのことだから。
平和なのだ。