家族は即効性はないけれど、じわじわくる
昨日の朝、母がハイテンションで二世帯の間をつなぐドアを開けてやってきた。
「あなたたち、今日、お姉さん休みだから、手巻き寿司にするから一緒に食べましょう。夜、いらっしゃい、夕飯の支度、たまには何にもしなくていいでしょ。」
とっさに
「・・・ありがとう。息子に伝える。喜ぶよ。・・・何時に行けばいい?」
行きたくない。まず、浮かんだ本心を悟られないよう、とりあえず繕うように返事する。
着る服、日常の過ごし方、顔が笑っていない、楽しそうに見えない。地味で好奇心が少なく見える私が物足りない。目につくことを、矢継ぎ早に正されると、なんとも自分が全くダメな人間なんだと突きつけられて、でも、それは自分のリズムや好みにあったやり方だから変えられなくて、悲しくなる。反論すると、さらに加勢して突っ込まれるので、ヘラヘラ笑うしかないが、心の中はグルグル目が回って自分を保てなくなってしまう。
実家なのに。ジレンマだ。
それでも。
守られている。守っている。あの人たちは私を。勢いと言葉のチョイスが、私のテンポと合わないから、こっちも受け取るのがうまくいかないけれど、あの人たちは私を守っている。それは確かなこと。それも、たぶん、想像を超える熱量で。
つまり、私の問題。受け取りベタなのだ。
そんなフレーズが最近、一人で歩いている時なんかに、突然、浮かぶことがある。それはラジオを聴きながら公園を歩いている時だったり、コンビニのイートインでコーヒーをぼんやり飲んでる朝だったりする。
突然、ふっとやってくるこのフレーズはきっと真実なんだと、私の中で何かを少しずつ溶かしてくれる。なのに、実際、いきなり「今日、いらっしゃい」と言われると、未だ条件反射のように、うっと構えてしまう。我ながら相当、頑なだなぁと持て余す。
午前中の母の出現から、いきなり気分は沈み、何にもやる気はなくなり、暑さのせいか疲れのせいか、これから迎える夕食のせいか、ずっと臥せっていた。本も読めない。食欲もなくなり、なぜか泣きたい気持ちでじっと夜を待つ。
とにかく流れに乗るんだ。うまく受け止められなくても、居心地が悪くてもそれは私にとって難しい愛の表現なんだから、毒になるはずがない。
そう唱えて、夜。少し落ち着いて、自分がどう変化しているか、果たしてどうだろう、実験的な気分にもなっていた。
結果は。
長居をしていつまでもおしゃべりしていたい、という気分にはならなかった。ただ、私はいつもの自分よりずっと落ち着いて、その場を味わっていた。
楽しんでます、感謝してます、ということを表現するための機嫌をとるような気のきいた発言もしなかった、愛想笑いも、しなかった。
私らしく、テンション低いまま、その場にただ、いることができた。
翌日の今日、なんだか、熱が下がった後のような気だるさと平和さの入り混じった不思議な感覚。恨みとか、不満とか、悔しさとか、一切無く、穏やかな状態。
浮かんでくるのは「ありがたい・・・」という念。直接、母にではなく、姉にでもなく、この自分の置かれている、取り巻くものすべての大きなものに。ありがたいなぁ。
それはやっぱり昨夜の食事の時間が、知らないところでじわじわと私に作用したのだ。
漢方の薬は飲むとき、苦いし、変な匂いするし、そのくせ、効果もないから、自分には合わない、こんなの飲むなら寝ていたいと思うみたいに。
私にとって、あの癖のある家族の愛は、一見、嫌なもので遠ざけたくなるけれど、知らないうちに私を癒す。
体も心も疲れていたんだなぁ。
ありがとう。お刺身、美味しかった。