お気楽日和

誰かに手紙を書く気持ちで、事件性のない平凡な毎日を切り取ってみようと思います。

納戸の中から

納戸が気に入っている。この狭さ。狭いけれど窓があるので、時間ごとにいろんな音が聞こえてくる。

息子を送り出し、二階に上がり、ここに来る。窓を開け、登校していく子供の声、ゴミ出しの時に挨拶を交わす近所のおばさん達の会話、向かいのアパートの人が見ているテレビの音、時々の笑い声、なんかが心を慰める。

人の生活音が好き。生々しく家族のものよりも、知らない誰かのがいい。

その音を聞きながら、ラジオをつけてパソコンを開けて、ブログを書く。

体や心の調子の悪い時は、ただ、じっと目を閉じている。

そうしているうちに、大丈夫、私もちゃんと生きているって思えるのだ。

子供の時はこんな面倒な人間じゃなかった。

日が暮れるまで、外で缶蹴りをした。中学に上がると、帰宅する途中、重いカバンを地面に置いて、足の間に挟んで、友人と別れる地下鉄の入り口で、ずっとしゃべった。女子高時代はお昼休み、机をくっつけて、大きな食卓にしてお弁当を食べながら、みんなと大声でほっぺが痛くなるほど笑った。

あの頃は怖いものなんてなかった。迷ったり、泣いたりしたけれど、どこか、自分が大好きで、世間とずれている自分をずれているとも思っていなかったし、むしろ、友人達との微妙な考え方の違いに触れるたびに、私は特別なんだと自分が誇らしくもなったりした。

大学、社会人になり世界がぐっと広がった。

この辺りで、私は、普通のみんなみたいな女子大生だったり、OLだったりする自分に憧れた。テレビドラマみたいな洋服を着てみたり、お化粧をしてみたり、占いを気にしてみたり、男の子の好みのストライクゾーンって何?って気にしてみたり。

初めは、やってみたりしているだけが新鮮なだけだったのに、思わずそんな私を周りの子達が「最近かわいくなったね」と言ったから、変に意識して、そっちに自分を寄せるようになった。

隅っこでぼんやりしていた自分が華やかな世界に馴染めているような錯覚。

私って結構、いい線いってるかもしれない。

とんでもない勘違いは私の足場を飛び越えて、ふわふわふわふわうわつき始めた。

親もそんな私を自慢げに友人や親戚に紹介したものだから、もう、このポジションは手放したくなくて、続けた。

いい娘さん。そう言ってもらいたくて、頑張った。

それは長く続いて、私は自分を忘れて、頑張ってる方が本物なんだと思い込んだ。

求められている自分、求めている自分像。それに寄せて生きてる私。

結婚し、子供を産み、二世帯同居をし、父を見送り、父方の祖母を見送って、子育てと妻をやり続けた。この演じていることの苦しさこそ、生きている証だ。

息子の中学受験が終わった春、心も体も、突然、壊れた。

命を吹き返しても、もう一度、頑張らないととするところが恐ろしい。

けれど、どうにもこうにも、どこを振り絞ろうとも、意欲はなく、生活そのものが辛かった。

この地獄も長かった。

今、私はこの納戸で自分の考えていること、自分の好きなことを探って過ごす。

このブログでその日その日の想いを書いて、誰かが受け止めてくれることが、私を大きく支える。誰かに好かれようとか、褒められようとか、考えず、これまで家族に「そんな考え方はおかしい」と否定されたことも気にせず発進する。遠い宇宙に向けて投げかけた言葉にあったこともないけれど、でも確かに暖かいものを持っている人たちが反応をしてくれる。

あぁ。私がちゃんと生きている。

中学生の頃、詩を書いては友達を見せ合った。

あの頃の私のかけらが、まだ私の中にあって、それがまた、むくむくと活性化してきた感じが、最近、する時がある。

家族と地域の中での役割を務める私の中にいる、生き残ってた根っこの私。

根っこがまた息づいてきた。これからゆっくりゆっくり、私の役割は変わる。娘を終え、子育てが終わる。妻もいずれは降りる。そのとき、この根っこが、大きくどっしりしたものになっていて欲しい。

もう、この根っこは枯さない。