お気楽日和

誰かに手紙を書く気持ちで、事件性のない平凡な毎日を切り取ってみようと思います。

遠くに行ってしまっているんだなぁ祖母はと悲しくなった話

昨日、祖母のところに行ってきた。会いたくなったから行ったのだけれど、祖母はいつも「ご苦労様」という。義務じゃないんだ。会いたいから来たんだと言っても、そう言う。

トイレに行けば、私が来ていてたことを忘れて、大広間の皆のところに行ってしまう。お昼に何を食べたかも、おでこにできた擦り傷が一体、いつどこで転んだのかも覚えていないのに、そう言う。それは、母に対してもだ。

自分が老人ホームにいて、ここが、自分のついの住みかで、若者達にはそれぞれの生活があるのだということは、誰が説明したわけでもないのに、把握しているのだ。

それが、悲しい。何かをぐっと我慢して、受け入れた強さが、甘ったれの私には寂しい。

二人で話が途切れると、いつもの全盛期の昔話を話し始める。

もしかして。もしかしたら、これも、祖母のもてなしなのかもしれない。

話を繋いで、場を和ませているのかもしれない。話しながら、次第に体をベッドに横に倒し、息が上がってくるらしく、ハァ、ハァとする。

私が来ることは、疲れさせてしまうということもあるのだろうか。少なくとも、長くずっといて欲しいというのとは違う。孫ってそういうものだ。私が、おばあちゃんに会いたいと、いつまでも甘ったれの子供であるから、彼女も「遠いところを御苦労さん。よく来たね」とおばあちゃんを演じることになるのかもしれない。

私が息子の前では母に、夫の前では妻にとやるように。

余生を老人ホームで過ごす祖母は、そこでのキャラクターがあって、それはやっと、祖母が自分自身で居られる場所になっているのではないだろうか。

母として、祖母として、妻として、働く女性として、ご近所の誰それさん、今までやってきたたくさんの役をおりて、ただのイオさんに戻っている場所なのか。

そろそろ帰るね、という時、私は勝手に切ない。置いてくると思っているから。

でも祖母は祖母でホッとしているはず。自分の馴染んだホームの仲間のところに戻れるから。

いつものように、私をエレベーターホールまで送り、私に握手をして、笑顔で手を振る。

扉が閉まったこっち側では私は勝手に切なくなっていて、あちら側ではくるっと仲間のいるテレビの大広間に戻り、座る頃には、私が来ていたことも記憶から消えている。

それでもいい。一緒に過ごした時間に私の話を聞いて笑ってくれた時、一瞬、私のおばあちゃんになっていた。