お気楽日和

誰かに手紙を書く気持ちで、事件性のない平凡な毎日を切り取ってみようと思います。

いい方に向かっての途中のこと

私は子供の頃から、自分に起きてることは何かしら、その方がいいからそういうことが起こってるんだと、思っていた。

宗教とかそういうのではない。でも漠然と自分の力の及ばない大きな人がいる世界があって、そこで私を見ている、そんな勝手な思い込みを勝手に作って信じていた。

その人に恥ずかしいことをしたら、こっそり一人で「すみません」とごにょごにょ謝ったりしていた。

天の高いところから、私のことをみんなで、「おぉ、やっとるやっとる」「怒ってますのぉ」「でもだいぶ、我慢できるようになりましたね」とか「悩んでる悩んでる」「悩んでますねぇ」「ちょっと、助け舟、出しときましょうか」なんて言いながら、輪になって私を眺めていて、私が死んだ時、上に行くとその人たちが、「おかえりぃ。お疲れさん。まぁ色々あったけど、よく頑張ったね」と迎えてくれるんじゃないかと半ば本気で思っていた。

それは息子を産んでもしばらくそうだった。けれど、父が死んだ時。

そこで私は「神様なんて嘘だったんだ」とやけになった。

父は癌だった。そして私は父親っ子だった。父の再発がわかったとき、私が本気で心がけをよくしたら、きっとあの人たちが救ってくれる、助けてくれる。いつも、もう、ダメだと思ったときも、ギリギリでなんとかしてくれた私の神様たち。

そう思って懸命に善を尽くした。我慢もしたし、無理もした。

でも、父は逝ってしまった。奇跡は起こらなかった。私は普通の人間だったし、父も普通の例外のない患者だった。

それからの私はぐれた。別に夜遊びとかしたわけじゃないけれど、どうせ神様なんかいないんだしと、ズルをし始めた。それまでぐっとこらえていたこと、我慢してきたことを腹いせのようにした。夫に文句を言い、お惣菜を買い、身体がしんどいと、しんどいことを前面に出した。どうせ、頑張っても誰も見ててくれない。拗ねた子供のようだった。

 

あれから何年経ったろう。

私はついに破綻して、二度も死にそうになった。そこから今度は鬱になり、引きこもり、死にたい、自分には生きる価値も意味もないと人生を投げた。精神科も通った。本もテレビも見る気力も体力もなく、ただ、ひたすら1日、今日もなんとか過ぎたと言う感じの日々が何年も続いた。

あれから何年だ?

16年。グレたのが10年。倒れてからが6年目の春。

私は笑うときもある。本も読む。漫画を借りてきて読むようになるなんて、想像もしていなかった。ブログも書いている。早起きして散歩したり、何より、家族に向き合えるようになった。未だに自分に自信のないところを抱えて生きているけれど、どこかそういう自分も「あんたも面倒な人ねぇ」と呆れつつ容認するもう一人の自分が育ち始めている。

神様。

神様。

やっぱりあなたは宇宙のどこかに力を働かせて全てを見守っているのではないですか。

その事実の真っ只中にいたり、衝撃が強すぎたりすると、存在を否定しそうになるけれど、もっと私のわからない大きな考えで、嬉しいことも悲しいことも降りかかってきているのではないですか。

 

なんか、最近、自分で舵を取らないで、あなたを全面的に信じ切った方がいいように思うのです。

怖いけど。失礼ですけど、それでもまだ、委ね切るのは勇気がいるのが現状です。

でも、アクシデントが起きた時、嫌なことを言われた時、きっとそれがなんかこれからのいい展開につながっていくのねってまた、あの頃のように思うようになりました。

もう、グレません。

 

・・・あの、昨日の頭のたんこぶは、どういった意味があったのでしょう。

今朝、息子に朝食をすっかり残されて八つ当たりされたのは・・・。

私のわからない絶妙なお考えのもとなんだろうなぁ。。。と今日もぼんやりあなたを想いました。

いい展開につながっていく途中のあれこれが日々起きている。