気負っていた恐れていた
努力なんかしなくてもいい。幸せな気分は簡単になれる。
それは、本当。私は、絶対安静の日々でも、1日の中に些細なことに心が暖かくなることを知った。それはお風呂だったり、入院食の献立だったり。窓からの風だったり。そんなことで、いい気持ちに人はなる。そのいい気分は激しくはないけれど、深く心の中にしみる。深い深いところにじんわりと入ってくる幸福感なのだ。
なのに、どうしても、何かしよう何か有意義な日にしないと、と思う癖が頭から抜けてない。
幸せな日にしたいから有意義な日にしようとしているのではないということか。
ちゃんとしているか。ちゃんとしていたか。その「ちゃんと」の基準が自分の中にあって、それを「ちゃんと」したか、にこだわるのだ。
その「ちゃんと」ってなんだろう。なんのためにそこにしがみつくんだろう。
これは仮説だけれど。勘違いをしていたのかもしれない。
育ってくるときに行動的な姉や友人の過ごし方を母が褒めた。それに比べていつも放っておけば家に居る私を見ていると歯がゆかった。「あなたももっとちゃんとしなさい」いつもそう言われたことが染み付いているのかもしれない。
バイトをするという発想もなく、毎日大学と家と往復するだけで満足している末娘は母からすると青春を謳歌できていないダメな子という認識だった。なんにも生産的なことをしない。「あなたもちょっとは本を読むとか、勉強するとか、しなさいよ。いつもぼーっとして」
私と姉は違う。好みも、好奇心のアンテナも。全てにおいて正反対だ。
でも私は、姉に憧れていた。お姉さんみたいに、「ちゃんと」したい。「ちゃんと」ができるようになったらもっと、毎日がバラ色に輝くんだろうなぁ。
そんなことをいっつも屋上の階段のてっぺんに座ってぼーっと空を眺めながら思っていた。そこでも風に吹かれて、幸せな気分だったのに、この幸せは努力してないから違う。頑張ればもっと本当の幸せが私を待っていて、そこからが本当の大人としての生活なんだと思っていた。
「ちゃんと」は怪しい。
今日の私はどう?また1日がなんとなく終わっていく。いいの?いいの?
私は、空っぽ。
いいの。大丈夫。
ぼんやり過ぎた1日も、誰とも話さなかった一日も、一度も笑えなかった日も、トゲトゲした日も、ちゃんと、心が緩む瞬間は必ずあるから。
ほやん・・っと緩むあの瞬間。
その一瞬をキャッチするために、私は寝て、起きているのかもしれない。