なにを言いたいんだか
あれから、自分が自分を承認していればいいと、納得できてから、毎朝起きると「あぁ。そうか。私はもう自由なんだ」と安心する。
それは、息子を産んだ日の翌朝、「あぁ、もう産んだんだ」と感じた安堵感とも似ている。
自分が自分を承認すると、自分にまつわるあらゆるものも、改良しなくていいということになって楽だ。
仕事ばっかりの旦那も、そのままでいい。
勉強大好きじゃないけど、好きなものには夢中になる息子もそれが完全。
とりあえず仲良くやってる家庭。不満をぶつけて気まずくなったり会話が減ったりしながら、一緒に暮している人たち。
この家族というのは鎖でも責任でもない。
ただ、あるだけ。
よく、無条件の愛とかいう。
私はそういうものを持てる人になりたい、そういう人存在でありたいともがいたけれど、
どんな状態でも「そうなのね」と思うことが、それに近いのかもしれない。
へんてこな自分をなんとか世間に追いつかせようとしていた時。
これじゃいけないと自分を変えようとしていた。けど、どうやっても変えられない。落ち込む。ダメな自分が嫌。でも諦めない。諦めたらいけないと、いつも頑張って疲れて途方に暮れて、いっつも自分が嫌い。常にもっと良くなろうもっと成長しよう、と心が休まらない。
「私はどうもへんてこなんだけど、そのままでいいや」と心の底から納得していいんだよと教えてもらって驚いた。
え、そんなズルしちゃっていいんですか。
怠け者の私はそんなことしたらどんどん自堕落になるんじゃないかと怖かった。
でもこの解放感は人に優しくなる。
私がそのままでいいなら、私を取り巻く全ての人たちも、そのままでいいに決まってる。
私の過去のつらかったと思っている記憶も、今の私にたどり着くためにあった事柄だから、それも正解。
ひどい人とか、嫌な記憶とか、無くて、すべて正解。
だから今日も、どんな風に過ごしても、正解。
よく依怙贔屓っていうけれど、まさに、自分を愛することって自分を依怙贔屓することかもしれない。
自分に甘くなると自己課題が減るから心にスペースができる。その新しくできた余裕が家族を友人を近隣を他人を動物を植物を愛する場所となるのかもしれない。
何があっても君の味方だよって、自分に約束しよう。
私はどんな時も死ぬまで、私のことを無条件でそのままで良いって言ってあげる。
ってなわけで、これからは安心してダラダラしよう。
春だから大好きな日向ぼっこして。
夕飯が面倒になるとすぐカレーにしちゃおう。
嫌なことはできるだけ逃げよう。
太ってきたと言われても、痩せようと気をつけなくていい。
好きな服を着よう。
自分を向上させるための本じゃなくて、興味のあるものだけ読もう。
付き合いでの行動はやめよう。
遠慮もやめよう。
人目を気にするのもやめよう。
怒られたらぺろっと舌出して、ごめ〜んと言って、気にしない。
改良しない。
大丈夫、そういう私こそ、いかにも私らしい。
そんな私の方が私にとっては魅力的。
凸凹生きよう。瞬間的に。