自分を洗脳しない
昨日、懐かしい歌番組をやっていたので、ついつい観ていました。
ちょうど私が小学生から中学、高校、大学だった頃をなぞっているので自分の歴史を照らし合わせながら久しぶりに前のめりで見てしまいました。
気がついたこと。
ドリフターズとか、ジュリーとか。百恵ちゃんに昌子ちゃん。幼稚園から小学校低学年の頃、スターだと思って見ていた彼らに、47になって改めて出会うと、これまで自分の中でつけていたラベルやレッテルとかなりズレてる。百恵ちゃんって儚い地味な女の子って思ってたけど、違うんだ。もっと根性座ってる。聖子ちゃんも。ただ、キャピキャピしてちゃあんな時代を引っ張っていけないよねぇ。ドリフを低俗とか、品が悪いとか?違うじゃん〜。
この子はいい子、この子はよくない。一緒にテレビを見ている時に偉そうにこっちの食卓で言っている母と姉の会話を聞いていた末っ子は「そうなんだ」と知識として真に受けてそのまま凍結してたわけです。なにしろ二人が当時夕食時に「これなら見ていい」とつけてくれる番組は「野生の王国」だったから。これも偏っていたんだと今頃。今頃気がつく。
当時のニュースやオイルショックもかいつまんで説明解説されていたのとちょっとニュアンスが違う。これは良いこと、これは良くないこと。すっぱり白黒分けてインプットしてきたことが全部、もっともっと多面的なんだと気がつく。
多面的。そう。なんでも多面的。
マッチと明菜ちゃんの一件だって、多面的。報道されていることの知らない真実がきっとある。マッチにだってきっと言い分はある。それをこらえることだって愛情だろうし。
悲劇の主人公は本当にそうなのか。
では悲劇を気取ってるだけの薄っぺらい人なのか。違う。違う。
みんな一生懸命生きてるんだなぁ。それぞれの傷を丸ごと抱え込んで笑ってきたんだねぇ。
ピカピカのオリコン第一位をとり続けてきた彼らが背負っていたものが、今は見え隠れして、いじらしく思ったりもする。
カメラを意識して心を閉じたまま笑っているのがわかったり。
昔はそういう、ちょっとぶりっ子だったり、いい人ぶっている臭いを画面からかぎとると、それはもう許さじっと言わんばかりの潔癖さで「あれ、嘘だよね。かわい子ぶってたよねっ」と翌日友達と教室で朝から盛り上がったものでした。
テレビに出てりゃ、そりゃ誰でも程度の差はあってもそうなるのが普通です。私なんか、カメラのレンズを向けられただけでつい、作り笑いをしてしまう。
小説や映画が時が経つと感想が変わるように一つの真実も時空を超えただけで私の中で随分違うものになる。
今が未来の過去だから、今起きることにいちいち自分で位置づけするのも野暮なことかもなぁ。いつかまたうつろい変わっていくんだろうしなぁ。